きそにっき

アウトプットします。

音楽は理論か感覚か

先日、一つの演奏会が終了した。僕はそこで僭越ながら指揮を振らせていただいた。

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僕の母校である札幌北高校合唱部の定期演奏会は、毎年現役の高校生とOBそれぞれの単独ステージ、そして現役・OB合同ステージで構成されている。僕はこのうち、OBステージである第2ステージを担当した。

この第2ステージ、実は練習回数が他のステージに比べて極端に少なく、しかも毎回練習に参加できるOBはほぼいない。この環境で、音がほぼ取れていない状況から演奏会で発表できるまで仕上げるという、かなり無茶なことをやっているのだが、OBの皆様方の技量が非常に高いので、毎回ギリギリで完成している。

 

僕は3月頭に札幌に帰省し、6回練習をつけたが、正直6回中5回はあまりいい練習ができなかった。曲の難易度もそうだが、僕が指導に関して色々勘違いしていた部分が多かったことに気付かされた。

5回目の練習まで、僕は楽譜に書いてあることを忠実に再現しようとしていた。「ここはf」「ここは♩=76」など、指示も出来るだけ抽象的な言葉は使わずにやっていた。

これだけでも百戦錬磨のOBたちはついてきてくれたが、先輩からのアドバイスなどもあって、前日の練習で「ここはかたく」「ここは内に秘めるように」など、少し指示を抽象的にしてみた。すると、驚くほど音楽が変わっていった。まさに、音が生き物のように動いてくる瞬間であった。僕はそれに感嘆するとともに、「最初からこうしていれば…」という後悔の念も覚えた。

 

最近、「感覚に頼りすぎるのは良くない」という音楽指導論をよく聞く。これは、音楽の感覚というものは個人差がとても激しく、あなたの感覚が他の人に当てはまるとは限らないという理由からである。僕もある程度それに納得し、最初のうちは感覚に頼らない練習をしていた。

では今回はなぜそれがいけなかったのか。それは、僕がこの考え方を誤用していたからに他ならない。

 

理論によって統一できるのは、あくまでも「基礎的な」部分だけである、と僕は思う。例えば初心者が、発声はどこの筋肉が動いているとか、第5音は高めにとるだとか、クレッシェンドは正の加速度的に大きくするだとか、いわゆる音楽をする上でのセオリーを体の中に組み込むために、理論は大変重要な役割を果たす。

しかし今回僕が指揮したのは初心者ではなく、百戦錬磨のOBだった。自分が進めたい方向を感覚として伝えさえすれば、あとは歌い手側がそれを自分なりの理論体系の中で消化し、アウトプットしてくれる人たちだった。しかも、そのアウトプットは、ほとんどの場合で理論で固めた音楽を超えていた。結果として、この合唱団に対しては感覚的な指導の方が伝わりやすかったし、理論以上の効果を得られたのである。

 

そもそも「暖かい」だとか「やわらかい」などの言葉で表現される音の感覚は、大きさ、速さ、音色、ハーモニーなどの要素が複雑に絡み合っており、理論で全てを解説するのはとてつもなく大変である。1口に「f(強く)」といっても、音色が違えば全く違うfが存在する。

しかし、それらを包括して一気に伝えてくれるのが「暖かい」「やわらかい」などの感覚的な言葉である。 もちろん感覚は個人差が激しいものの、ある程度音楽の経験値がたまってくると、不思議と全ての要素が揃ってくる。感覚的な言葉は、不便なようで実は非常に便利な言葉だったのだ。

 

幸い、このことに気づいたおかげで、本番はなかなかいい演奏ができた。練習は反省ばかりだったが、この経験は僕の音楽観に新たな知見をもたらしてくれた。みんなも積極的に指導者を経験してほしい。

 

最後に、僕のポンコツな練習に最後まで付き合ってくれて、非常に多くのアドバイスをしていただいたOBの皆様や先生方には、改めて感謝を申し上げます。ありがとうございました。